2015年8月30日日曜日

38年目の再会!



小学校4年~6年まで一緒のクラスだった田中君のお父さん(以下Tさん)はタクシーの運転手だった。このジャケと同じくkm(国際自動車)タクシーだったのだ。ただ、車はもっと新しかったが..

田中君の家に遊びに行ったのは、彼の家が土曜のお昼は毎週カレーだという噂がクラスに広まり、食べた奴が「すごくおいしい」と言い始めたのがキッカケ。貧乏(オイラも含め)なガキはそんな噂に飛びついた。「こんど俺達もごちそうになりたい」と田中君の家にムリヤリ押しかける。するとTさんが休憩なのかカレーを食べていた。「よく来たなぁ、沢山たべろよ」と言われた。確かに美味しくて、何度も押しかけるようになる。

ある時、Tさんは「じゃぁ、ドライブでも行くか」と言ってオイラ達をタクシーに乗せてドライブに連れ出してくれた。家に車なんかない貧乏なガキ達は大はしゃぎ(だいたいオイラが自転車が買えたのは中学になってから)だった。

Tさんは歌好きみたいで、ラジオなんかつけず、運転しながらオイラ達に自慢の歌を聴かせてくれた。最も印象に残っているのが小林旭「自動車ショー歌」だ。あと、「恋の山手線」。小林旭と加山雄三が得意だったようだ。後にオイラがこの二人の映画を何度も観るルーツがここにある。

田中君の家のカレーブームも去り。Tさんも個人タクシーになり、いつしか貧乏ガキどもも、卒業する。

オイラが本格的にレコードを買い始めたのは、77年の高1の時。バイトした金を握りしめてレコ屋を転々とブツを漁っていた。高1の夏、蒲田の「えとせとら」でレコを漁っていると上記レコと遭遇!真っ先にTさんを思い出した。「kmのマーク入っているし、ほしいなぁ」と思ったが、その当時で2400円の値がついていた。「高いレコード店だなぁ」と思い、他を見てみるとPYGの田園コロシアムのライブ盤が5万円。「ここは、俺が来るレコード店ではないな」と高1ながら悟った。しかし、それ以来上記レコには38年間出逢えなかった。

今回、ナカレコさんのおかげで、38年ぶりに上記レコを入手できた。感慨深い。果たしてTさんは生きているのか、交流がないので、知るすべもないが...

「乗せたお客が 可愛い娘 こんな恋人いたならば バックミラーに 目をやって
 はかない夢を追う 夜の街」という4番の歌詞が、オヤジになったオイラには、妙に沁みる...

徳川一郎、ナイスな曲は他にもあったと思うが、思い出せない。

2015年8月11日火曜日

久しぶりに聴くマンダリンものカセット!



スハルト政権下時代、公には中国語の使用は禁止されていた。もちろん曲も聴けない。まぁ、地下では香港や台湾のカセットが海賊盤仕様でうられてはいたけど...ネットなんかない時代だ。

そこで生み出されたのが、「ポップ・マンダリン」という音楽ジャンルだ。中国、香港、台湾などの楽曲をカバーしたりパクったり、いろいろあった。それらは全てインドネシア語。「インドネシア語だったら文句はねぇだろ」当時、カセット業界を牛耳っていたのはほとんどが華人だ。発想がすばらしい。テレサがインドネシア語で歌ったアルバムがあるのもその流れだろう。

スハルト政権崩壊後、絶滅してしまった「ポップ・マンダリン」だが、久しぶりに聴いた。しかも上記カセットの表記は「Gambang Kromong Dangdut Mandarin」直訳すれば、中華風ダンドゥットのガンバン・クロモンだろうか。むちゃくちゃなジャンル表記、誰が買うのか、オイラが買う。

ガンバン・クロモンは中華文化の影響をもろに受けた大衆音楽だが、ブタウィ文化に溶け込んでしまってあまり中華文化を感じられなかった最近、改めて考えさせられるカセットが上記だ。なんかしっくりくる。A1はLavenia - Melody Memory のカバーだ。その時点で笑える。確か、台湾曲だったかのカバー曲だ、いや香港かな。B1の「Lingling」が素晴らしい。ガンバン・クロモンを積極的にリリースしてきたレーベル(もうないよなぁ)未知数のカセットが残っていそうで楽しみだ。

参考MV:https://www.youtube.com/watch?v=_4-HTgVfp_8
参考MV: https://www.youtube.com/watch?v=9hjoR2cDr-o&feature=youtu.be

2015年8月7日金曜日

楽しい夜更し学校は休み



オイラは特別ナイアガラ・フリークではないけど、今回の 『NIAGARA MOON』40周年記念盤は、聴いていて泣きそうになった。なぜなら、77年のナイアガラ・ファースト・コンサートへ行っているし。高1の時だった。

そもそもナイアガラとの出会いは中学の時に聴いていたラジオ関東の「ゴーゴー・ナイアガラ」だ。鶴光のオールナイト・ニッポンの話ばかりが学校で話題の中、「ゴーゴー・ナイアガラ」の話をするのはバンドのメンバーだけだった。

オイラは中学の時に「ボインズ」というコピーバンドをやっていた。女にモテたいために。そのバンドで「楽しい夜更し」をコピーした。中3の文化祭、音楽教師にピアノを頼み、同級生のブラスバンド部の女子にも応援を頼んだ。どうせなら、歌詞を変えたいと、本番は歌詞を変える。「すぐに始まるマージャン」を「すぐに始まるシンナー」そして、「楽しい夜更し学校は休み」と。これが教頭の逆鱗に触れた。担任から呼び出され、注意を受ける。誰も聴いていないだろうと思ったら教頭がチェックしていた。何とか教頭に復讐したい、と思ったオイラは卒業式謝恩会で、関西弁を操る教頭に「教頭(京都)大阪帰りなさい」と歌ってやった。

そのバンド、キャロルのコピーもやったなぁ。いやだったけど、担任に頼まれた。ほとんど学校に来ない不良生徒がキャロル好きで、バンドのヴォーカルをやれば学校に来るだろう、と担任は考えたのだが、予想外にそいつは学校に来た。練習だけ。奴にはポマードの塗り方を教わった。

77年のナイアガラ・ファースト・コンサート。確か渋公に行く途中、電柱にはポスターが貼ってあったと思うんだよなぁ、オイラは何枚かパクッて来た記憶がある。隣の席の人に「君達いくつ?」と聞かれて、「16です」と答えたら、「若いのにいいね」と言われた記憶がある。というか、その人達だって20代だったハズだ。当時流行だったボーリング・シャツ(確か背中にはMACTH BOXの刺繍)着てコブラ・ツイスト踊って三ツ矢サイダーもらったのが一番うれしかった。中学時代はチャリで酒屋周りをして秋吉久美子と風吹ジュンの三ツ矢サイダーのポスターを探し回っていたからね。

今回、CDインナー写真に当時のチラシ、チケットが掲載されていて、なんだか少しだけタイムストリップ、いやタイムスリップした。

参考:https://www.youtube.com/watch?v=JKe8rzjSDPA&spfreload=10